姥神大神宮渡御祭が終わり、一息ついた2日後にまた江差に足を運びました。
本当は神楽の取材で訪問したのは、田沢稲荷神社に行きましたが、どういう訳か神社の本殿には誰もいない状態でした。これはどういうことだろう、時間を間違ったかなと思いつつ、確認しても時間は間違っていないようでした。もうすでに宵宮祭が終了しており神社は誰もいなく、鹿子舞(ししまい)の行列が何処かに行くのを見かけました。そうだ、ここは田沢という地域で、鹿子舞(ししまい)があるのを思い出しました。ということで、郷土芸能の取材に変わりました。どうやら何処かで鹿子舞(ししまい)が、行われるようであります。付いて行きました。
田沢稲荷神社 鳥居
田沢稲荷神社
田沢稲荷神社の由緒は、
正徳4年(1714)の創建と伝えられる。明治9年10月、村社に列せられる。明治27年8月24日社殿が大破したため再建を出願し同年11月21日改築が許可される。明治28年1月に遷座祭を斎行した。更に昭和35年には社殿を改修している。修繕、祭典当の経費は村中にて負担運営している。
※いつもながら、北海道神社庁から引用
会場には山車(やま)が出ており、お祭りの際には出して巡行するのだろうと思われます。
龍神山
どうやら橋の開通式もあり、その1つとして田沢鹿子舞の披露されるということでありました。お盆と言うことで、帰省した人も少なくなく、この鹿子舞の見学者は多かった。田沢鹿子舞については、下記の通りであります。
江差町田沢地区に伝わる田沢鹿子舞の起源は、松前藩がおさめていた江戸時代にさかのぼります。あるときの藩主が、病に苦しむ奥方のヤマメを食べたいという願いをかなえるため、数人の若者を谷川に向かわせました。このとき若者たちは、母鹿とともにいる若い雌鹿を争う、3頭の雄鹿の争いを聞いた藩主は、その様子を舞いにまとめるようにと若者たちに命じ、奥方の前で披露させました。笛、太鼓の拍子に乗せて雌鹿争いを繰り広げる鹿子舞を見た奥方は、病気の苦しみも忘れるほどに喜び、褒美を賜ったと伝えられています。
明治、大正期のニシン漁の最盛期。田沢鹿子舞は、毎年8月14日と15日に行われる田沢稲荷神社の祭典に行われ、人々の大きな楽しみとなっていました。
この鹿子舞は、雄鹿子と雌鹿子、母鹿であるヤジマッカ、年老いた白鹿子、そして赤鹿子の1人立ちの5頭で演じられます。
江差町の無形民俗文化財に指定されている田沢鹿子舞、現在、保存会によって田沢稲荷神社の祭典に演じられるほか、地元の小学生が伝承活動を続けています。地域の文化を培った先人たちへの感謝の気持ちが、世代を超えて受け継がれています。
江差町ホームページより引用
鹿子
ヤンコ登場
田沢鹿子舞の笛の担い手さん
この鹿子舞は、ヤンコが出てきてホメるところがあり、新築された家なら家をホメて、今回は橋の開通式であれば、橋をホメるということであります。
舞いの途中で、乱入してくるのが「オカシシ」というキャラクターが、鹿子と面白おかしく絡んで観客を沸かせるために出てきます。
舞いの途中、オカシシ登場
あとで聞いたところ、毎年この鹿子舞は、新築した家にも行き披露されるとのことで、橋の開通式が終わった後にもう1回行われると言うので、そちらにも行って撮影させてもらいました。
ヤンコとは、唄いながらホメを入れる人のことを云います。
最初の方は、伏せています
ヤンコ登場
ヤンコ
ヤンコ、ホメています
5頭の鹿子
オカシシ登場
争い終わり
この郷土芸能を現在支えているのは、高校生であります。貴重な人材であります。
角の長いのは雄、3頭
短い角は雌、2頭 赤いのは母鹿子 右側は娘鹿子
毎年、この田沢稲荷神社のお祭りでこの鹿子舞は行われているようで、来年は神社を新築するようで、神社前で行われると言うことであります。その時は、大人の鹿子舞が見れるということであります。
田沢鹿子舞保存会の人達には、いろいろとこの鹿子舞のことを教えてもらい、直会まで呼ばれてしましました。
是非、これからもこの鹿子舞を継続させて欲しいと願うばかりであります。