初めて取材させてもらう函館の神社です。
近年あまり函館市内の神社での取材はしておりませんでした。函館の松前神楽のデータが少ないのもあり、今年から少しでも入れていこうと思いました。
神山稲荷神社の由緒は、
寛政8年(1796年)旧9月創祀、貞享3年(1686年)佐々木佐四郎の祖、陸奥国七戸の住人佐四郎法国、蝦夷地に移住の時故郷より御神体を奉持し来て上の山(神山村)に小祠を建立する。元禄5年(1692年)上の山地区は次第に人口が多くなり、佐四郎村民に議り、上の山村の鎮守の神として祀る。寛政8年(1796年)旧暦9月、亀田八幡宮社司藤山和泉正季房、上の山地区に社殿を建立する。その後村民で産土神として祀って来たが、人口減少で同村鍛治稲荷神社に明治45年合祀されるが、戦後人口増になり、昭和42年宗教法人設立、元の通り産土神となる。
※いつもながら北海道神社庁より引用
とあり、古い歴史を持つ神社であります。
神山稲荷神社
函館市内で行われているのは、本来の松前神楽の形式を省いた松前神楽であります。
祭礼の時間がかかるというので、森町の森稲荷神社の小島仁太郎(昭和11年に75才で没)さんと、上磯八幡神社の村田義徳(昭和5年65才で没)さんが二人で、この形式を造られました。現在でも函館市内と森町と数カ所の神社で行われています。詳細は、「松前神楽・豆知識 渡島式(函館式)」を参照して下さい。
行われた神楽舞いは、弊帛舞(みてくらまい)、二羽散米舞(にわさごまい)、三番叟(さんばそう)、翁舞(おきなまい)、神遊舞(かみあそびまい)、〆引(しめひき)、十二の手獅子舞・五方(じゅうにのてししまい・ごほう)・面足獅子(もたりしし)の7座が奉奏されました。
弊帛舞(みてくらまい)、榊舞(さかきまい)、祝詞舞(のりとまい)とも云います。
その神社の宮司が朝夕玉垣内に参進して、神域を祓い清め、神拝して御幣を奉るという、神職の神明奉仕の姿を表した舞いであります。函館と近郊の町で行われる際には、松前神楽奉納となる時、斎主(その神社の宮司)が最初に舞われる舞いであります。
弊帛舞(みてくらまい)
二羽散米舞(にわさごまい)、庭散米とも書き、鳥名子舞(とりなごまい)とも云います。
鶏は天の岩戸開きに暗黒の世より光明の時を告げ、世の始まりに地を踏み固めた瑞鳥であるとされています。雌雄二羽の鳥形の冠を頭に冠し、羽根には雄は瑞雲つまり天を表し、雌は海の波を形どり地を表して、雌雄親しみ和合して、世の中が平和である様を表し、神の恵みの米をまき散らし、千五百秋の瑞穂の国の五穀豊穣を祝う舞いであります。
二羽散米舞(にわさごまい)
三番叟(さんばそう)は、背が低く、顔が黒く、精力絶倫にして健康長寿、正道徳行の翁が、才智多い子孫に恵まれ自身もまた長寿であることを喜び舞う、家門の隆昌、子孫の繁栄を祝福した舞いであります。
三番叟(さんばそう)
翁舞(おきなまい)は、面白く背が高く心柔和な老翁が、額にしわがよっても身体堅固で幾星霜を経る間に、身分が高い位に登った姿で、舞中に願意を言葉に表し、息災延命、立身出世を祝って舞う福禄寿の備わった最も目出度い舞いであります。
翁舞(おきなまい)
神遊舞(かみあそびまい)、天皇遊舞(てんのうあそびまい)とも云います。
二人の武人が弓矢を持ち、四方の悪魔を退散し、正しい心に返す意味の舞で、松前藩の威徳を内外に示し、蝦夷地鎮定、天下泰平を祈願した舞であります。この舞は、松前藩主6代矩広(のりひろ)公の作品だと伝えられています。
神遊舞(かみあそびまい)
注連祓舞(しめはらいまい)、〆引(しめひき)、七五三祓舞(しめはらいまい)とも云います。白扇を四方四隅中央を祓い、真剣を抜き天井に十文字の縄を張った注連縄を切り払い、悪魔退散、国土安穏、千秋万歳を祝して舞われる舞いであります。
〆引(しめひき)
十二回手が変わるので、十二の手獅子舞と言われる云われています。1年十二ヶ月を形どり、獅子幕も十二反使用するを本格とするのであると云われています。五方とは、東西南北と正中(真ん中)を祓い固め蝦夷鎮定、国土安穏を祈る様を表しています。面足獅子(もたりしし)は、五方の手からコミカルな楽に変わり猿田彦が登場し、暴猛な大獣獅子を手玉にとって遊び戯れ、平和な世の中を招く悪魔降伏の舞いである。
十二の手獅子舞・五方(じゅうにのてししまい・ごほう)
上2枚 十二の手獅子舞・面足獅子(じゅうにのてししまい・もたりしし)
神楽奉奏する際に、幼稚園の生徒さんが拝殿を訪れ神楽を見学して行きました。
函館市内の人でもまだ見たことがない人は多く、「名前は知っていても・・・」と言う人が多数を占めております。一度体感して、北海道に残る神事芸能を感じて欲しいと願わざるを得ません。