2010年2月25日、北斗市茂辺地地区にある、矢不来(やふらい)天満宮で毎年行われている、春の祈年祭を取材させてもらいました。
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矢不来(やふらい)天満宮は、3年に一度に行われた「大祭」を取材させてもらいました。祭りの神輿、行列を出すということは、それなりに経費が大きいので、3年に一度行われるようであります。
この春の祈年祭は、毎年2月25日に行われていて、この地区の人の信仰の深さを感じさせます。
矢不来(やふらい)天満宮の由緒
矢不来(やふらい)天満宮の由緒は、
嘉吉3年(1443年)安藤盛季矢不来に舘を築く。長禄元年アイヌとの戦いに稀瑞を感じ舘主下国安藤式部大輔安部家政が家臣池田半太夫源輝元に命じ神勤させた。爾来、守護神として崇敬す。
貞享5年下国儀季造営、元禄14年(1701年)、下国要季造営。同年、拝殿を吉川六兵衛が造営、宝暦2年(1752年)下国細見が再建、明和3年(1766年)下国但見安部季政が再建、天明3年(1783年)7月下国勘由が再建、
元治元年再建、明治8年村社に列す。明治15年(1882年)下国安芸が茂辺地に遥拝殿再建、明治28年(1895年)遙拝殿移転、大正6年矢不来より茂辺地に本殿を移転、大正6年神饌幣帛料供進指定。昭和3年上磯町字矢不来138番地に移転、昭和43年社殿を神明造に改築する。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
舘稲荷神社 倉稲魂神 元和元年9月創祀 明治11年合祀
※北海道神社庁ホームページより引用
矢不来天満宮
矢不来(やふらい)の語源
この地は、道南十二館の1つ茂別館があった所で、丘の上にあるお社です。「矢不来(やふらい)」とは、コシャマインの戦いの際、この地にアイヌの毒矢が茂別館まで届かなったことから「ヤギナイ」と呼称し矢不来の字をあてたとい言うらしい。地形から言うとアイヌ語の「ヤンギナイ」=船を揚げる所というものに由来するという説が有力であるとのこと。
春の門祓神事
午前9時に、門払い行列が出発した。コースは、大祭に行われる行列と同じコースです。
上・2枚 門払い行列
約3時間程、町中を練り歩き、門払いは終了しました。この日は、4月の気温になり、多少汗ばむくらいのいい天気になり、歩きやすい天候であった。昨年は真逆の天候で、吹雪での門払いであったようです。
春の祈年祭・鎮釜湯立式
午後1時に祈年祭が行われた。祭式終了後、松前神楽が行われ、鎮釜湯立式から始まりました。
鎮釜湯立式 釜清
鎮釜湯立式 笹入
この後「笹湯」をいただき、舞楽の松前神楽である。
松前神楽奏上
今回行われた神楽舞は、榊舞(さかきまい)、福田舞(ふくだまい)、三番叟(さんばそう)、注連祓舞(しめはらいまい)、十二の手獅子舞・五方(じゅうにのてししまい・ごほう)の5座である。
榊舞(さかきまい)、弊帛舞(みてくらまい)、祝詞舞(のりとまい)ともいう。
その神社の宮司が朝夕玉垣内に参進して、神域を祓い清め、神拝して御幣を奉るという。神職の神明奉仕の姿を表した舞いである。函館と近郊の町で行われる際には、松前神楽奉納となる時、斎主(その神社の宮司)が最初に舞われる舞いである。
榊舞(さかきまい)
福田舞(ふくだまい)、跡祓舞(あとはらいまい)とも云う。跡祓舞(あとはらいまい)は、宵宮祭で獅子舞を行わない神社で、一番最後に行うことから跡祓(あとはらい)とも云う。四方の神々を拝し、祓い清めて干ばつ、暴水、火難の災いを除き、五穀豊穣を祈願する舞いである。
福田舞(ふくだまい)
三番叟(さんばそう)は、背が低く、顔が黒く、精力絶倫にして健康長寿、正道徳行の翁が、才智多い子孫に恵まれ自身もまた長寿であることを喜び舞う、家門の隆昌、子孫の繁栄を祝福した舞いである。
三番叟(さんばそう)
注連祓舞(しめはらいまい)、〆引(しめひき)、七五三祓舞(しめはらいまい)ともいう。白扇を四方四隅中央を祓い、真剣を抜き天井に十文字の縄を張った注連縄を切り払い、悪魔退散、国土安穏、千秋万歳を祝して舞う。
注連祓舞(しめはらいまい)
十二回手が変わるので、十二の手獅子舞と言われる云われている。1年十二ヶ月を形どり、獅子幕も十二反使用するを本格とするのである。五方とは、東西南北と正中(真ん中)を祓い固め蝦夷鎮定、国土安穏を祈る様を表している。
十二の手獅子舞・五方(じゅうにのてししまい・ごほう)
矢不来天満宮・春の祈年祭 まとめ
初めて、矢不来天満宮の春の祈年祭を見せてもらいました。
春に行われる神楽は、ここだけではなく、知っている所では「上磯八幡宮」「銭亀沢八幡神社」でも行われているようです。
春神楽は、松前城下七社家のほか、東西四社家が参加して正月12日または、13日に行う事が例になっていたらしく、その風習が残っているものと感じられました。