北海道指定無形民俗文化財「江差三下り」です。
信州馬子唄が越後路に入り、越後の船頭衆や舟子達によって唄い伝わり、陸のメロディーから海のメロディーに変化し、越後路から船に乗り蝦夷地の江差に伝わり、浜小屋や茶屋で唄われ、遊里の歌・座敷唄となり三絃の三下り調子として完成されたものであります。
この唄は労働歌的要素がなく、艶のある粋な唄となっています。優雅な遍路の踊りが振り付けられ、唄も踊りも伝承されてきました。
江差追分が完成する過程の元唄で、追分の母胎であると伝えられています。
この踊りは、明治初年に江差に来演した東京春木座の中村玉丈によって、歌舞伎調の優雅な踊りに手直しされ、当時の江差商人と芸妓を模した道行姿の踊りとなって伝えられています。
この唄は労働歌的要素は全く消滅し、艶のある粋な唄となっている。その後文化年間(1804~1817年)に幽妙、優雅な遍路の踊りが振り付けられ、唄と踊りとともに伝承されてきたが、その情趣は遊里的で「江差の五月は江戸にもない」といわれた雰囲気を残しています。
しかし、追分節の勃興により漸次陰の存在となり、花柳界を除いては一部同好者の間だけ唄い継がれていましたが、明治末に至ってこの唄の名人といわれた熊野リツが現われるに及んで、その素朴な歌調は優美な踊りとともに再び注目されるようになり、爾来追分節と並んで江差を代表する民謡として伝承されてきたものであります。
踊りはその後明治初年に江差に来演した東京春木座の中村梅玉丈によって、更に歌舞伎調の優雅な踊りに手直しされ、当時の江差商人と芸妓を模した道行姿の踊りとなって伝えられております。
踊りの扮装は、男は町人髷に立縞の着流し・角帯、女は潰島田に荒縞のお召、黒繻子帯に浅黄の湯文字、手拭を被って道行姿で登場するのが本式とされています。
しかし、追分節の勃興により漸次陰の存在となり、花柳界を除いては一部同好者の間だけ唄い継がれていましたが、明治末に至ってこの唄の名人といわれた熊野リツが現われるに及んで、その素朴な歌調は優美な踊りとともに再び注目されるようになり、爾来追分節と並んで江差を代表する民謡として伝承されてきたものであります。
踊りはその後明治初年に江差に来演した東京春木座の中村梅玉丈によって、更に歌舞伎調の優雅な踊りに手直しされ、当時の江差商人と芸妓を模した道行姿の踊りとなって伝えられております。
踊りの扮装は、男は町人髷に立縞の着流し・角帯、女は潰島田に荒縞のお召、黒繻子帯に浅黄の湯文字、手拭を被って道行姿で登場するのが本式とされています。
江差町公式ホームページより引用
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