引き続き、江差町・郷土芸能フェスティバルで行われた郷土芸能を公開したい。
江差町といえば、「江差追分」であるが、この唄に踊りを付けたのが、「江差追分踊り」である。衣装は、アイヌ風の衣装をし舞う。文化文政(1804-1829)時代に、座敷踊りとして芸子の間で踊られその由来は、アイヌ同士が交歓の際に、海辺に住むアイヌが唄を歌い、山の女アイヌが、熊祭りの振り付けで踊ったとの伝承がある。慶応4年(1868)歌舞伎俳優の市川弁之助が江差で興行した際に、彼の振り付けで櫓を押す形や、カモメが飛ぶ仕草を入れて、それが伝承されて現在に至っているようである。江差追分は、それだけの歴史があり、人気のあり全国の愛好者が多い民謡である。北海道が誇れる郷土芸能といっても過言がではないだろう。
江差追分踊り
今年、初めて見せてもらったのが「江差田沢鹿子舞」である。存在は知っていたが、見た事がなかった。現在は、子供達に後継しているらしく、練習を積んだ成果を見れた。ここ周辺の獅子舞は、「鹿子舞」であり「鹿」が舞うのである。ここの鹿子は5匹で構成されていて、他の鹿子舞の中でも一番多く鹿子が出る。
この鹿子舞の由来似ついては、地元の原田長右衛門氏(1858年-1951年逝去)が下記のように語られ、記録している。当時松前藩主の奥方が重い病で憂鬱な日々を過ごしていて、ある日ヤマメが食べたいとのことで、田沢の数人の若者が松前藩主の命により、谷川にヤマメを捕りに出た。山奥に入って行くと、あまりに変わった鹿の鳴き声に足音を忍ばせ、ヨゴミ・ススキをかきわけてその様子を見たところ、オス鹿3頭、メス鹿2頭、計5頭の鹿がいた。小川にかかる一本の丸太橋の上には心配そうに見ている母鹿の前に若いメス鹿を置き、オス鹿3頭が角を突き合わせ、我こそこのメス鹿を我が物にと、落とされても這い上がり、最後に勝ち残った1頭のオス鹿が若いメス鹿を連れ去った。この様子を松前藩主に進言したところ、大変興味をもって、ぜひその様子をひとつの舞いにまとめるように命じた。なんとかこの様子を舞いにまとめ松前藩主に披露され、藩主も満足しこの鹿子舞には我と同等の位を授けるということになり、現在に伝わる警護棒を先頭に行列が進められ、昔はこれを横切ることは絶対に禁止とされていた。藩主の奥方は、自分の持っている最高の帯をこの鹿子舞に賜ったとも言い伝えられている。
江差田沢鹿子舞
更に、次にまた江差の郷土芸能を紹介したいと思う。
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